アルジェリアの歴史(アルジェリアのれきし フランス語: Histoire de l'Algérie)では、現在のアルジェリア民主人民共和国に相当する地域の歴史について述べる。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ
先史時代のサハラは草原であり、タッシリ・ナジェールには紀元前8,000年頃からの住人の生活の様子が壁画に描かれている
この地にはベルベル人が居住していたが、紀元前にフェニキア人が地中海沿岸部に植民都市を建設した。紀元前5世紀になると沿岸部はカルタゴの支配地域となり、ヌミディアと呼ばれるようになった。紀元前3世紀にカルタゴとローマとの間でポエニ戦争が勃発すると、ローマと結んだマシニッサがベルベル人諸王国を統一し、ヌミディア王国を建国した。ヌミディア王国はローマに味方し現リビアのキレナイカにまで勢力を伸ばした。紀元前111年にはヌミディア王ユグルタとローマの間にユグルタ戦争が勃発した。ローマ内戦でヌミディア王ユバ1世はローマの将軍ユリウス・カエサルと戦ったが、敗れてヌミディアはローマの属州になった。
ローマ帝国の支配下でヌミディアは「穀倉庫」として重要な支配地とされた。396年にローマ帝国が東西分裂すると、ヌミディアは西ローマ帝国の統治下に置かれた。430年にはガイセリック大王率いるゲルマン系ヴァンダル人が進出、カルタゴにヴァンダル王国が建国され、アルジェリアの地中海沿岸部もヴァンダルの支配を受けた。ヴァンダル王国は地中海の制海権を握り、海上貿易で繁栄したが、ゲリメリ王時代の534年にユスティニアヌス1世の統治する東ローマ帝国に滅ぼされ、アルジェリアも東ローマ帝国の版図に組み入れられた。
ローマ帝国の終わりにはキリスト教が伝来し、アルジェリアでは「キリスト教最大の教父」と呼ばれるヒッポのアウグスティヌスが生まれ、『告白』や『神の国』といった後のキリスト教世界に多大な影響を与えた著作を残した。
アルジェリアのイスラーム化
7世紀末から8世紀初頭にかけてイスラム教国のウマイヤ朝が征服したイフリーキヤ(現在のチュニジア)方面からアルジェリアに侵入した。アラブ人の侵入によって土着のベルベル人たちはイスラム教に改宗し、住民のアラブ化が進んだ。以後この地はイスラム世界の一部となった。アッバース朝の衰退の後、カイラワーンのアグラブ朝やマフディーヤのファーティマ朝の支配を受け、11世紀にはアラブ系ヒラール族のベルベル人集中地域への侵入により、ベルベル人のアラブ化が加速した。その後ムラービト朝、ムワッヒド朝といったベルベル人のイスラーム王朝が成立し、アルジェリアを支配した。両王朝では学芸が栄え、統治下のアル・アンダルスではイブン・ルシュドなどの知性を輩出した。
1236年にはトレムセン総督のヤグムラーサン・イブン=ザイヤーンがムワッヒド朝から独立し、トレムセンにザイヤーン朝を開いた。ザイヤーン朝は当時アルジェにまで至る地域を支配していたチュニスのハフス朝と、フェスのマリーン朝に挟まれた勢力であり、度々東西から両勢力の侵入を受けた。1492年にイベリア半島で統一スペインがナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタが終焉すると、北アフリカ一帯に亡命アンダルシア人が流入し、アルジェリアにもアンダルシアのムスリムやユダヤ人(セファルディム)が定着した。彼等はモール人と呼ばれ、沿岸部の都市に定着し、商工業を支えた。
レコンキスタ後にはスペインが地中海に勢力を伸ばし、キリスト教世界とイスラーム世界の争いが激化した。1509年にはオランがスペインに占領され、ザイヤーン朝はスペインの属国となった。一方アルジェを根拠にしたバルバリア海賊の首領バルバロッサは地中海を荒らし周り、そのためにスペインのアラゴン王フェルナンド2世はアルジェを占領した。バルバロッサはスペインからの保護を求めて1533年にオスマン帝国に臣従した。アルジェはオスマン帝国のマグリブ支配の拠点となり、1550年にはオスマン帝国軍によってトレムセンが陥落し、ザイヤーン朝が滅亡した。オスマン帝国は勢力を拡大して1574年にはハフス朝を滅ぼし、東はエジプトから西はアルジェリアにまで至る北アフリカ一帯を征服した。
オスマン帝国領時代(1550年-1830年)
アルジェ砲撃(1816年)1574年からオスマン帝国は北アフリカのアルジェリア、チュニジア、リビアに別々のパシャを送り込み当地を支配した。後にアルジェのデイはパシャから権力を奪い、オスマン帝国から自立的な立場を取ったが、チュニスのフサイン朝やトリポリのカラマンリー朝のようなトルコ系の軍人による世襲の王朝は誕生しなかった。他の自立王朝と同様にアルジェリアもオスマン帝国時代を通してイスタンブルの帝国政府に貢納を続けた。オスマン帝国時代にほぼ現在のアルジェリアの領域が確立した。また、ヨーロッパ船に対する海賊行為が行われた。海賊行為により多数のヨーロッパ人が奴隷化されたため、1816年にはイギリスとオランダによってアルジェ砲撃が行われた。
フランス領時代(1830年-1962年)
民族英雄 アブデルカーデル19世紀に入るとマグリブ地方はヨーロッパ列強による植民地化の対象となった。1827年にアルジェのデイがフランス領事を「扇の一打」事件で侮辱したことをきっかけに、1830年よりフランス復古王政は、マルセイユ商人の意向と、国内の不満を王政から逸らすためにアルジェリア侵略を始めた。
1830年にアルジェがフランスに征服された後、フランス当局はアルジェリアを完全征服しようとはしておらず、トルコ人を追放してアラブ人の君主を新たに据えるだけに留めるはずだった。しかし、トルコ人のデイが追放されるとアルジェリアは無政府状態に陥り、各地でアラブ人の蜂起が相次いだ。1832年にアブデルカーデルはフランスに対してジハードを宣言し、激しい抵抗運動が続いた。フランスとアブデルカーデルは双方との妥協を模索したこともあり、停戦中にフランスとアブデルカーデルは双方の占領地での主権を認め、アブデルカーデルの支配地では近代的な行政制度が確立された。しかし、1841年にアルジェリア総督にビュジョー将軍が任命され、アブデルカーデルやアブデルカーデルに味方したアラウィー朝モロッコ軍を破り、1847年にアブデルカーデルは降伏した。その後カビール山地のベルベル系カビール人との戦いが続いたが、1854年に最終的にはアルジェリアの民族運動は平定された。
フランスは、アルジェリアに本国同様の行政単位を設置した。1848年にアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県の3県が置かれ、3県は本国と同等に扱われてフランス人植民者が本国政治に関わることを可能にした。征服の最中から植民地化・フランス化が進められ、アルジェリアには多数の「コロン」と呼ばれるフランス人移民が流入し定住した。フランス人以外にもヨーロッパからスペイン人、イタリア人、ドイツ人、マルタ人がアルジェリアに移住し、普仏戦争後には、フランスからドイツ帝国に割譲されたアルザス=ロレーヌから、ドイツの支配を嫌ってアルジェリアでフランス人であり続けることを望んだアルザス人が5,000人ほど移住した。[1]これらの非フランス移民もやがてフランス文化に同化してコロンとなった。ヨーロッパ人以外にユダヤ人もフランス化し、フランス支配の一環を担った一方で、多数の反フランス的なムスリムの民族主義者が政治犯として逮捕され、ニューカレドニアなどへ流刑に処された。地中海岸の肥沃な土地を中心に、ムスリムの土地はコロンに奪われた。
ララ・ファーティマ・ヌスメール征服の初期には軍人とアラブ局が主導権を握り、アラブ人やベルベル人の文化を研究し、イスラーム文化を尊重した上での占領政策が行われた。また、第二帝政成立後の皇帝ナポレオン3世は軍部の方針を支持し、親アラブ的な傾向からアルジェリアを「アラブ王国」と呼んだ。このため、コロン達は軍人支配と第二帝政に不満を抱き、ヨーロッパ人の特権を確立するために共和制を信奉するようになっていった。
1870年に普仏戦争の敗北により第二帝政が崩壊して第三共和政が成立すると、第二帝政に不満を抱いていたコロンにより、パリ・コミューンに倣ってアルジェでアルジェ・コミューンが成立した。コロンはコロンによる自治を求めたが、1871年にカビール地方のムクラーニーに率いられたムスリムが大反乱を起こすと、アルジェ・コミューンは崩壊した。しかし、この反乱は鎮圧され、以降アルジェリア植民地の主導権はコロンが握った。
19世紀後半になると、鉄道網の整備、地下資源の採掘、プランテーション農業によるブドウの栽培と、ブドウを基にした輸出用ワインの生産などが進められ、ブドウを軸にしたモノカルチャー経済構造が完成し、アルジェリア経済のフランス経済に対する従属が深まった。土地をコロンに奪われていたムスリムは、失業や貧困のためにフランス本国に出稼ぎせざるを得なくなり、これが今日まで続く在仏アルジェリア人の起源となっている。
1914年に第一次世界大戦が勃発したが、アルジェリアにはマシュリクのアラブ反乱などの影響は及ばず、アルジェリアが直接の戦場になることはなかった。しかし、総力戦体制のもとでアルジェリア人にも兵役義務が課されたほか、フランス本国における労働力の不足から、多くのアルジェリア人がフランスの軍需工場や鉱山などに動員された。アルジェリアからは173,000人が出兵し、内87,500人が志願兵だった。
1921年にアルジェリアの人口は5,804,200人に達し、720,700人がヨーロッパ系、つまりコロンだった。[3]この頃にはコロンもアルジェリア生まれの二世、三世が多くなり、『異邦人』の著者アルベール・カミュのように、コロンはフランス語を話しながらもアルジェリアで生まれ育ったヨーロッパ系アルジェリア人と化していった。
第一次世界大戦後に民族自決への期待が高まったが、フランスの植民地支配は継続した。こうした中、一部の勢力は共産主義に独立の希望を見出した。1926年にパリで成立した「北アフリカの星」は、アルジェリア人・チュニジア人によって結成された組織で、フランス共産党との連携を強めた。いったんは解散させられたものの、1932年に「栄光ある北アフリカの星」として再建され、マグリブ地方出身の人々に支持を拡大した。この組織は1937年にアルジェリア人民党となる。
トーチ作戦でアルジェ付近に上陸した連合軍第二次世界大戦が勃発し、1940年に第三共和政が崩壊してヴィシー政権が誕生すると、アルジェリアはヴィシー政府を支持した。戦時中アルジェリアは直接戦場にはならなかったが、北アフリカ戦線ではドイツのロンメル将軍、アメリカ合衆国のパットン将軍達が戦闘を繰り広げた。1942年11月に連合軍のトーチ作戦が発動し、アメリカ合衆国軍とイギリス軍が上陸すると、駐アルジェリアフランス軍のフランソワ・ダルラン提督は武装解除に応じた。こうしてアルジェリアはシャルル・ド・ゴールの自由フランスに復帰し、パリ解放までアルジェに自由フランスの本部が置かれた。フランスは本土解放のためにアルジェリア人の徴兵を行い、独立運動家のフェラハート・アッバースらはムスリムの市民権の拡大と引き換えに自由フランスに協力した。アルジェリアからも多くの成人男子がフランス軍に動員され、アルジェリア師団はイタリア戦線のモンテ・カッシーノの戦いや、ドラグーン作戦をはじめとしたフランス本土での戦いに参加し、多大な犠牲を出した。戦時中のアルジェリア人の生活はインフレや食糧不足によって厳しく、1945年5月8日の戦勝記念日を祝う集会は対仏暴動に発展し、フランス軍によって鎮圧された。セティフで数万人の死傷者を出したこの事件はアルジェリア独立運動を高揚させることになった。
第二次世界大戦後、ムスリムの間にナショナリズムが広まり、第四共和政下の1946年に行われた選挙では、新たにアルジェリア宣言民主同盟を結成したフェラハート・アッバースが勝利した。フランス議会は1947年にアルジェリア組織法を採決し、アルジェリアの自治を拡大する方針を打ち出したが、この措置には特権の維持を望むコロンも、ナショナリズムに燃えるムスリムも反発を抱くものとなった。その後もフランス政府はムスリムの状況を改革する努力を行わず、このため、1953年には穏健派だったアッバースも武装路線を打ち出し、ゲリラ戦争への準備が進んだ。
アルジェリア戦争(1954年-1962年)
バリケードの一週間(1960年)植民地独立運動の激化によりフランスは第一次インドシナ戦争を続けていたが、ディエン・ビエン・フーの戦いの敗北により、1954年にピエール・マンデス・フランス首相はジュネーヴ休戦協定が結んで仏領インドシナ連邦の統治下にあったベトナム国などの独立を承認した。このことは、他のフランス植民地における独立運動を力付けることになった。1954年にはフランスからの独立を標榜する「国民解放戦線」(FLN)が結成され、ゲリラ活動をアルジェリア、フランスで展開した。
北アフリカ植民地のうちチュニジアとモロッコは1956年に独立を果たした。しかし、曲りなりともフランス保護領として君主国の組織が維持されていた両国と異なり、フランス本土の一部として扱われ、多くのヨーロッパ系市民(コロン、ピエ・ノワール)を抱えるアルジェリアに対してはフランス世論も独立反対の声が強く、フランス政府は独立を認めなかった。1957年にはアルジェの戦いでフランス陸軍の空挺部隊が独立派を大弾圧し、「フランスのアルジェリア」政策の維持を図った。大打撃を受けたFLNは拠点をモロッコやチュニジアに移し、1958年にはナセル政権の計らいでエジプトのカイロにアルジェリア臨時政府が樹立された。こうして第三世界各国からのアルジェリア独立の支援も始まり、日本からも宇都宮徳馬などがFLNを援助した。[4]
フランス政府はアルジェリアの在来住民にフランス人としての完全な市民権を付与することで懐柔をはかろうとするが、特権を維持することを望むコロンたちの反発を買った。アルジェリア在留のフランス軍空挺部隊はコルシカ島を占領し、クーデターを起こそうとした。
このような混迷の中でフランスでは引退していた英雄に事態の収拾が求められ、ド・ゴールが大統領に就任し、憲法を改正して第五共和政が成立した。ド・ゴールは内外の情勢を鑑み、植民地解放政策をとり、1959年にはアルジェリアの独立を承認しようとした。しかし、軍は軍事拠点としてのアルジェリアの重要性を叫び、アルジェリア在住の100万人のコロンは「フランスのアルジェリア」をスローガンに独立に反対した。しかし、ド・ゴールは主導権を発揮して難局を切り抜けた。1961年にエヴィアン協定が結ばれ、7年に渡るアルジェリア戦争は終結した。コロンや軍部の極右派は秘密軍事組織(OAS)を結成してフランス当局やムスリムに対するテロを繰り広げたが、住民投票の結果、独立承認が圧倒的支持を集め、アルジェリアは独立した。戦争による死者は100万人に達したとされている。
アルジェリア革命は脱植民地化時代のブラックアフリカの独立革命に多大な影響を与え、第三世界諸国からも多大な支持が寄せられた。マルティニーク出身の精神分析家フランツ・ファノンはFLNに参加する傍ら独自の革命理論を体系化し、後のチェ・ゲバラと共に1960年代の第三世界の革命運動やポストコロニアリズムに大きな影響を与えた。
独立に伴い、100万人のヨーロッパ系アルジェリア人は大挙してフランスに逃亡した。フランスに協力したムスリムのアルジェリア人(アルキ)もフランスに亡命できなかった者は報復により虐殺された。アルジェリアを統治していたフランス政府は植民地時代に一貫して必要な改革を施すことを拒否し、ムスリムの権利拡大を認めなかった。ヨーロッパ系アルジェリア人は終始ヨーロッパ人としての特権の維持を求め、アルジェリアに住むベルベル人やアラブ人との協力を最後まで拒み、そのことがヨーロッパ系アルジェリア人とアラブ系、ベルベル系のアルジェリア人が融和した国家を目指す穏健な独立運動の発展を阻害した。その帰結として100万のヨーロッパ系アルジェリア人は、生まれ育ったアルジェリアを永遠に失うことになった。
独立後のアルジェリア(1962年-)
初代大統領ベン・ベラ(右から一人目)独立後、FLN内部でのベン・ヘッダとベン・ベラ対立によりアルジェリアは内戦の危機に陥った。しかし、最終的に軍部を掌握したフワーリー・ブーメディエンの支持によって9月10日にてベン・ベラの勝利が確定し、アルジェリア民主人民共和国が成立した。1963年には憲法が制定され、ベン・ベラが大統領に就任した。ベン・ベラはナセル主義と社会主義に影響を受け、フランス系アルジェリア人の出国によって放棄された農地や工場の国有化政策を採り、キューバ革命後のキューバと共に非同盟運動を主導して第三世界諸国や植民地に革命の輸出を図った。アルゼンチン人の革命家チェ・ゲバラがアルジェ演説でソ連を厳しく批判したのもこの頃である。ブラックアフリカ諸国との関係も重視され、1963年のアフリカ統一機構(OAU)の原加盟国となった。また、132年間のフランス支配によってフランスの影響を受けた国民の再アラブ化が図られ、アラビア語教育が熱心に行われたが、これはベルベル系の住民の独自性を否定する方向に働き、後にベルベル問題に発展した。
しかし、経済は混迷し、失業者は増加した。1965年のアルジェで開催される予定だった第二回非同盟諸国首脳会議の直前に、ブーテフリカ外相の解任をきっかけにしてブーメディエン国防相がクーデターを起こし、ベン・ベラ政権は崩壊した。
クーデターによって1965年に就任したフワーリー・ブーメディエン政権は経済の建て直しに成功した。ブーメディエンは1971年に石油と天然ガスを国有化し、戦後高度成長を達成していた日本を模範にして重工業化を進めた。しかし、オイルショックによりアルジェリア経済は打撃を受け、先進国への離陸は失敗し、フランスに出稼ぎするアルジェリア人が増加した。他方、ベン・ベラ以来の第三世界非同盟外交は続き、ブーメディエンが主導権を握った1974年の国連総会(資源総会)ではアルジェリアの名声が高まった。ブーメディエンは1978年に死去した。
ブーメディエンの死を受けて1979年に就任したシャドリ・ベンジェディード政権は、重工業化の推進による経済開発を推進したが、1980年のアルジェ学生運動や「ベルベルの春」事件など、FLN一党体制やアラブ化政策に対する国民の不満が明らかになった。1986年にはインフレが酷く進行し、食糧難や失業などの社会不安を生み出した。1988年には食糧不足からクスクス暴動が発生し、危機感を覚えた政府により1989年に憲法が改正され、複数政党制が認められた。しかし、このような状況を背景として、若年層を中心にイスラム原理主義への支持が高まり、こうしたイスラム原理主義者のなかには武装闘争を展開するものも現れた。
1991年12月に行われた初の野党の出馬が認められた総選挙の結果、イスラム原理主義勢力のイスラム救国戦線(FIS)が8割の議席を得て圧勝した。彼らは憲法を無効とした。これに対し、世俗主義を標榜する軍部がクーデターで政権を握り、シャドリ首相を解任した。軍事政権はイスラム原理主義者を非合法化して弾圧、選挙は無効とされた。1994年にゼルアルが暫定大統領に就任したが、イスラム原理主義組織はテロで反政府運動を展開し政情は混迷している。政府、軍部、イスラム主義勢力によるアルジェリア内戦で約20万人が死亡したとされる。
1999年の大統領選挙でFLNからアブデルアジズ・ブーテフリカが文民として34年ぶりに当選した。
2002年総選挙でFLNが第一党となった。
2006年現在、テロは沈静化している。また、ブーテフリカ大統領などの協調政策により、テロのイメージをなくす努力をG8諸国などに対して積極的に行っている。