2009年06月19日

カラット (carat, 記号:ct, car)は、ダイヤモンド

カラット (carat, 記号:ct, car)は、ダイヤモンドなどの宝石の質量を表す単位である。現在は、1カラット=200ミリグラム(=0.2グラム)と規定されている。分量単位としてポイントがあり、1カラット=100ポイントとなっている。

語源は、アラビア語のquirrat(デイゴ)か、ギリシャ語のkeration(イナゴマメ)だという。古くは、これらの実はどれもほぼ同じ重さと考えられ、宝石の重さを表すのに「デイゴまたはイナゴマメ何粒分の重さか」で表していたという。後にヤード・ポンド法のグレーンと関連づけられ、およそ205ミリグラムとなった。メートル法導入後は、各国で異なった値のカラットを用いていたが、1907年のメートル条約の会議で1カラット=200ミリグラムと定められた。
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カラットは国際単位系(SI)の単位ではなく、併用して良い単位ともされていない。しかし、宝石の計量単位として国際的に使われていることから、日本の計量法では宝石の質量の計量に限定して使用して良い単位となっている。

宝石の取引は、厳密には定められた基準をクリアした計量器で計量されたカラット単位を示すことしか認められていないが、ミネラルショーなどでは簡易型の計量器が慣習的に使われていることが多い。

カラット、カット、カラー、クラリティ(透明度)の4つがダイヤモンドの品質を決めるとされ、「4C」と総称される。

カラット(karat, 記号:K, Kt)は、金製品の金の純度を24分率で示す単位である。日本では「金」という略称で、24金や18金などと呼ばれることもある。


2009年06月01日

アヘン(阿片、鴉片)は麻薬の一種で

アヘンの名は、英語名 opium の中国語の音訳である阿片(a piàn アーピェン)を日本語読みしたものである。明代の中国、江戸時代の日本では阿芙蓉(あふよう)と書いた。

以前は、東南アジアの「黄金の三角地帯」で多く栽培されていたが、抑制対策が功を奏してその地帯での栽培は大きく減少した。2007年の国連の報告書[1]によれば、アヘンの82%はアフガニスタンで栽培されている。

ケシの開花後、10~20日経った未熟果(カプセル)に切り込みを入れるなどすると乳液状の物質が穫れ、これを乾燥させると黒い粘土状の固形物になる。これがアヘンである。アヘンは約10%ほどのモルヒネを含む。 日本以外の国では、切り傷を水平方向に付ける場合が多い。

つくったアヘンは薬研で粉末にし、ブリキ缶に入れ政府に納入した。

精製の必要がなく、顕著な薬効があるために、極めて古くからその存在が知られている。今日では他の麻薬に比べ麻薬性は相対的には少ないとされるが、過度の服用は幻覚症状などを引き起こし、中毒に到る恐れもある。モルヒネなどの多くのアルカロイド類(アヘンアルカロイド)を含んでおり、製薬原料として広く利用されている。アヘンはモルヒネのジアセチル体であるヘロインの原料となるが、ヘロインは麻薬性に偏った成分を持つため、アヘンよりもさらに危険な麻薬として厳しく取り締まられる。
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アヘンは極めて古くからその存在が知られている。紀元前3400年頃にはメソポタミアでケシが栽培されていたと考えられており、紀元前3000年頃に記述されたと見られるイランで見つかった石版にはシュメール人の乳液の採取について記述されている。紀元前2000年頃には、ヨーロッパや、中東、中央アフリカにケシ栽培は伝わった。紀元前1500年頃にエジプトにてアヘン製造がされていた事がわかるパピルスの文献が見つかっている。文献によれば、アヘンは当時のエジプトにおいて鎮痛剤などの薬剤として用いられていた。メトロポリタン美術館のアッシリアン・リリーフ・ギャラリーにある、アッシュールナツィルパル2世の宮殿にあった紀元前879年に作られた浮き彫りの有翼神獣は、美術館はザクロと述べているもののケシの未熟果の束を運んでいる。

紀元前300年頃のギリシャの哲学者テオフラストスの著書に、アヘンについての記述を見ることができる。ギリシャ神話では、アヘンの発見者は女神デメテルとされている。ローマ帝国ネロ帝の侍医ディオスコリデスは、アヘンの採取法及び薬効を著書の中で詳しく述べている。この時代には、アヘンはすでに鎮痛剤、睡眠剤として利用されていた。一部で遊興的な使用も行われたが、多くは薬用であった。英語名 opium は、この時代のラテン語名 opium を引き継いだものである。古代ヨーロッパにおけるアヘンの使用は、西ローマ帝国の滅亡により、一時廃ることとなった。

5世紀前後、イスラム圏の交易網が発達し、インドや中国、アフリカの中部などの各地にアヘンはもたらされた。アラブ商人は医薬品としてのアヘンを商品とみなしていた。東アジアにも伝来した。シルクロードを通じて、アラブ商人が持ち込んだと考えられている。500年頃に薬学者であった陶弘景により編纂された『唐本草』には医薬品としてのアヘンの記述がある。それ以前に、シルクロードを通じて持ち込まれた医薬品、底野迦(てりあか)にはアヘンが含まれていたとの指摘や、三国時代の医師である華佗の用いた麻酔薬、麻沸散にアヘンが含まれていたとの指摘がある。当時の中国において、アヘンはレクリエーション使用が行われることはなく、清朝に至るまではアヘン禍に陥ることは無かった。

11世紀前後、イスラム圏との接触を経て、アヘンはヨーロッパに再伝来した。再び、医薬品として用いられた。15世紀頃からは麻酔薬としても用いられた。20世紀初頭までは民間療法の薬剤として用いられた。ヨーロッパにおいて、「アヘンの危険性の認知」や「アヘンの習慣を持つ者が多い中国人の各地への移住とそれによる中国人コミュニティーとの接触」に伴ない19世紀には反アヘン運動が高まった。

大航海時代を経ての西欧諸国による海上貿易において、アヘンは重要な商品となった。中国では、西欧諸国、特にイギリスによりアヘンがもたらされ、アヘン禍に陥る。イギリスは交易において三角貿易の構造を構築し、アヘンを用いて資産を獲得した。このアヘン貿易は、規模や対象、時代こそ違うものの諸国においても同様の交易が行われ、オランダ、日本、トルコ、ペルシアなどはアヘン貿易で資金を獲得した経験を有する。英中間において、アヘンはアヘン戦争の引き金となった。

20世紀初頭から、国際間におけるアヘンの統制が始まる。1912年にはハーグ阿片条約が調印され、アヘン貿易が制限された。1920年に国際連盟が成立してからは、連盟が統制に関する職務を負い、国際機関が設置された。1926年の第一・第二阿片会議条約では、アヘンの使用等に関しても統制され、1928年の麻薬製造制限条約においてアヘン貿易は完全に禁止された。国際連合に移行後も、同様の統制体制が持続し、現行の1961年の麻薬に関する単一条約においてもアヘンは統制されている。

2009年04月29日

気温(きおん)

気温は地上の気温を意味し、WMO (世界気象機関)の規則により、地上から1.25~2.0m の高さ(日本の気象庁の基準では1.5m)で、温度計を直接外気に当てないようにして測定する。そのために、温度計や湿度計はファン付きの通風筒や百葉箱に入れられる。
「気温」だけを表す単語は日本語や中国語など一部の言語にしかなく、英語では「温度」を表すTemperatureが気温の意味で代用され、厳密に「気温」を表す場合はAir temperatureなどが使用されている。

また、世界気象機関や日本などでは気温を摂氏(°C)で表すが、アメリカでは伝統的に華氏(°F)で表すことが多い。

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最高気温
着目している日、すなわち0時から24時までに観測された気温の最高値を最高気温(あるいは日最高気温)という。通常(特に晴天の日)には12時から15時の間に観測されることが多いが、もちろんそのときの気圧配置によって夜中に観測されることもある。天気予報などで「日中の最高気温」と明示した場合は「9時から18時までの最高気温」となる。新聞などでは「0時から15時までの最高気温」が掲載される場合が多い。また、着目している月内に観測された気温の最高値を月最高気温という。
最低気温
着目している日、すなわち0時から24時までに観測された気温の最低値を最低気温(あるいは日最低気温)という。通常(特に晴天の日)では午前3時から6時の間に観測されることが多いが、もちろんその日の気圧配置によっては昼間に観測されることもある。天気予報などで「明日朝の最低気温」と明示した場合は「明日0時から9時までの最低気温」となる。新聞などでは「前日21時から当日9時までの最低気温」が掲載される場合が多い。また、着目している月内で観測された気温の最低値を月最低気温という。

2009年04月13日

劉 武(りゅう ぶ)

劉 武(りゅう ぶ、? - 紀元前144年)は、前漢の皇族。文帝の子で景帝の同母弟。

生まれ [編集]
父は文帝、母は竇皇后。文帝前2年(紀元前178年)に代王に封ぜられ、翌年に淮陽王に遷る。文帝前12年(紀元前168年)に梁王に遷る。

文帝の死後、景帝前3年(紀元前154年)、景帝は皇太子を立てておらず、景帝は宴席で梁王武に「自分が世を去ったら王に位を伝えよう」と言った。王はこの言葉は本気ではないと思いながらも喜び、母の皇太后もそうするべきだと思った。

呉楚七国の乱での功績 [編集]
その年、呉楚七国の乱が起こると、呉・楚・斉・趙の各国はまず梁を攻撃し、数万人を殺害した。梁王は篭城して守るとともに、韓安国・張羽らを将軍として呉・楚等を防いだ。このため呉・楚は梁より西には行けず、周亜夫らに敗れて反乱は失敗した。梁が殺害または捕虜とした兵数は漢と同じくらいの数だったという。

梁王は皇太后の産んだ末っ子であることから愛されており、下賜は莫大であった。また景帝にとって最も親しく、功績もあり、豊かな大国を領有していた。梁王は大きな苑を作り、城を拡張して宮殿を造った。また、天子の旗を賜り、車千台に騎兵一万人を従え、先払いを出すなど、天子に匹敵する態度であった。また羊勝・公孫詭・鄒陽といった各地の豪傑や遊説の徒を招き、武器や弩を数十万制作し、膨大な金銭を蔵し、宝物は首都よりも多かった。

その後、梁王が首都に入朝すると、景帝は天子の副車で彼を出迎え、滞在を許した。朝廷内にあっては皇帝のそばに侍し、外出時は同じ車で狩猟に興じた。梁の侍中・郎などは漢の宦官のように殿中への出入りを許された。

後継問題 [編集]
景帝前7年(紀元前150年)に景帝が栗太子(劉栄)を廃位すると、皇太后は梁王を後継者にしようと考えた。しかし袁盎や大臣たちが皇帝を説得したためこの話は沙汰止みとなり、梁王も敢えて言わなかったので世間がこのことを知ることはなく、梁王は帰国した。

その年に景帝が新たに皇太子(のちの武帝)を立てると、梁王は袁盎らを恨み、袁盎ら十数人を暗殺した。景帝は梁王が黒幕ではないかと疑い実行犯を追ったところ、実際に梁王の仕業であることが分かった。そこで使者が道に並ぶほどになり、梁王の件を取り調べた。陰謀を練った羊勝や公孫詭は匿われていたが、梁相の軒丘豹や梁内史の韓安国が諫言したため、羊勝と公孫詭を自殺せしめた。これにより景帝は梁王にも恨みを抱いたが、梁王は韓安国を派遣して皇太后に謝罪させたため許された。

景帝の怒りは和らいだため、梁王は上書して入朝を願った。入朝すると梁王は斧の前に伏して謝罪したため、皇太后と景帝は喜び元のような関係となったが、景帝は以前よりは梁王を疎んじるようになり、同じ車には乗らなくなった。

その後、梁王が首都への滞在を願った時には許さず、梁王は帰国すると鬱々として気が晴れなかった。そんな折、足が背中の上に出ているという牛が献上され、梁王はそれを悪く感じた。その年の6月に熱病となり、6日に死亡、孝王と諡された。

皇太后は梁王の死を聞くと号泣して食事を取らず、「皇帝がわが子を殺したのだ」と言った。景帝もどうしたらいいかわからなかったが、長公主の計により、梁国を分割して梁王の男子5人全員を王とし、女子5人全てに湯沐邑を与えることで皇太后の悲しみは癒え、食事を再開した。

子 [編集]
梁共王 劉買
済川王 劉明 - 罪により廃された
済東王 劉彭離 - 罪により廃された
山陽哀王 劉定 - 死亡後後継者がなく断絶
済陰哀王 劉不識 - 死亡後後継者がなく断絶

ただみま まおい プロト 光の子 クロスス マンドゥク パロア 変革生活 ポケット コバンソ レスク 白い花 めんこ シュズ モンス ゼルス リュウ カイヤ ハマヒ フォーク ダイア モダリティ いきこう ジアル セーブル フロー ぴかいち さんめし しぎやき オーバ ナビ本陣 海のミネ ナビ朱鳥 NO1里芋 たきかわ にしめ ゾンデ ミストレス マート キシロース オルゴール ディーラム フライ カスタード ツリー 十三夜 フアラ くまざさ ノット クォーツ

2009年03月29日

アイギス

アイギス(ギリシャ語:Αιγίς, ラテン文字転写:Aigis)とは、ギリシア神話において主神ゼウスが娘の女神アテーナーに与えた防具である。ありとあらゆる邪悪・災厄を払う魔除けの能力を持つとされている。鍛冶神ヘーパイストスによって作られたとされ、形状は楯であるとも、肩当てまたは胸当てのようなものであるとも言われている。なお、「アイギス」とは元々、山羊皮を使用した防具全般を指す名称であった。

ちなみに、英語読みはイージス(Aegis)であり、日本語ではその他、アイジス、エイジス、エージス等の呼称、表記もされる。
ギリシア神話においては、アイギスがアテナに与えられた後、英雄ペルセウスが、目を合わせた者を石化させてしまう魔物メドゥーサを討伐し、その首を持ち帰ってアテナに捧ると、アテナはその首をアイギスにはめ込んだと伝えられている。メドゥーサの持つ、目を見た相手を石化させてしまう能力は首を斬り落とされた後も残り続けており、ペルセウスはメドゥーサの首を持ち帰る際、いくつかの局面(巨神アトラスに会った時、ケフェウス王の娘アンドロメダを救出する為に怪物を倒す時、アンドロメダとの結婚の祝宴中に乱闘が発生した時等、ただしこれらについては諸説ある)においてメドゥーサの首を使って相手を石化させている。アテナはその首をアイギスに取り付ける事で、アイギスをより優れた防具にしたという。
キッド マロン マーブル モーダル メープル ピュア スポア 九月の砂 カトブレ ほわい ワイヤー シャム モード イグサ チカツ レーザー ルイス WEB大葉 ブリッジ ルーマニア ネチケット アイド タランチ キャラメル オフェンス ハラタ ヒット メーザー イヤリング ルバッ なかにい 片道切符 いろんな いばば ねっび ローブ アスク リカレ フライト グアバ ナチガイド トライア ブイヨン シャンビ ゼムクリ スケルツォ ナビハズ ビビッド むぎこうじ マッシュル

なお、ペルセウスがメドゥーサを討伐する際、彼がメドゥーサの姿を見て石化するのを防ぐ為、アテナはペルセウスに、青銅鏡の様に輝く楯を貸した。ペルセウスは眠っているメドゥーサに忍び寄る時、楯を利用してメドゥーサの姿を直接見る事なく近づいた為、石化する事なく首をはねる事に成功した(近づく時の方法は、楯を通してメドゥーサを見ながらだとも、楯の表面に映るメドゥーサを見ながらだとも、それ以外の方法だったとも言われる)。この時に使われる楯がアイギスだと言われる事もある。ただし、形状については上記の様に、肩当てまたは胸当てとして伝えるものもある。


2009年03月14日

スレバルナ自然保護区

スレバルナ自然保護区 (Природен резерват Сребърна) は、ブルガリア北部の南ドブルジャ地方、シリストラ州にある厳正自然保護区。シリストラ (Silistra) の西18km、ドナウ川の2km南に位置するスレバルナ村近くにある。ウィア・ポンティカ (Via Pontica) 上のスレバルナ湖(水深は1mから3m)とその周辺を対象とし、ヨーロッパとアフリカの間の渡り鳥の通り道となっている。

自然保護区は生物圏保護区にも登録されている。世界遺産は6km²の核心地域と5.4km²の緩衝地域から成っていたが、2008年に拡大された。保護区に典型的な生物種の陳列が行われている博物館も併設されている。

スレバルナ湖は非ブルガリア人研究者たちによって過去何度となく研究されてきたが、ブルガリア人生物学者としては、1911年にこの地へ研究のために赴いたアレクシ・ペトロフが最初であった。1913年には南ドブルジャ全体がルーマニア領となったが、1940年にブルガリアに返還された。この年は、ペトロフがこの地に営巣している鳥たちのコロニーを観察しに再訪した時でもあった。

この一帯は1948年に自然保護区となり、1975年にはラムサール条約登録地となった。さらに、1983年にはユネスコの世界自然遺産にも登録された。


伝説 [編集]
スレバルナ湖の名の由来には諸説ある。一説に拠れば、Pechenegsと争っているうちに近隣で歿したハーン、スレブリスト (Srebrist) に由来するという。異説では、湖畔にあった銀を満載した小舟(銀はブルガリア語でsrebro)に関係があるという。さらに別の一番もっともらしい説では、満月の夜に湖面が銀色に照り返すさまに由来しているのだという。


植物相 [編集]
湖畔にはヨシをはじめとする水生植物が生えている。保護区全体には絶滅危惧種を含む67種の植物が生育している。


動物相 [編集]
保護区内の動物相は豊かである。39種の哺乳類、21種の爬虫類・両生類、10種の魚類が確認されているが、この保護区を有名にしているのは、なんといっても179種にもおよぶ鳥類である。そこには、ニシハイイロペリカン、コブハクチョウ、ハイイロガン、アヒル、ヨーロッパチュウヒ、オガワコマドリのほか、カラ類、サギ科、ウ科の鳥などが含まれている。


世界遺産 [編集]

登録基準 [編集]
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。

(10) 生物多様性の本来的保全にとって、もっとも重要かつ意義深い自然生息地を含んでいるもの。これには科学上または保全上の観点から、すぐれて普遍的価値を持つ絶滅の恐れのある種の生息地などが含まれる。

危機遺産登録 [編集]
スレバルナ自然保護区は、1992年に「危機にさらされている世界遺産」リストに加えられた。主たる理由は、周辺の農業の悪影響である。スレバルナ湖とドナウ川の間に堤防が設けられ、もともとは8mあった水深が半分以上減った。さらに、周辺の農業地域での農薬の使用などが土壌汚染を招いた。また、当時の中央政府もスレバルナの環境保護に熱心とは言えなかった。

1998年には保護区内のヨシの原野やペリカンの営巣地が度々嫌がらせの放火に遭い、そんな中、中央の無関心にもめげずにスレバルナ管理事務所で精力的な保護活動に尽力していたイワン・ディミトロフ所長が自殺するという、痛ましい出来事も起こった。
ダイビ ワサビン ナンピン ライトウイ ブーケ ラケット スーパ スキッダ プラネット 組曲 ナイロン リテラ オーベル シェアリ 白鳳支援 ムート ふるさと ジャパニ キチネッウ ヌビア てかばん クロア パート ラザーニャ ファイター ナポレオン ファタ ウコン パワー ブース ロビューム クーペ ラゴス ユグノー チラム トラサ あわせばお アカ パンフレット スパン バドミン ミレー フルー ミリーカー スカイプ ファン トリプ ハジ カソード シノニム

しかし、その後漸進的に保護活動が改善に向かい、農業よりも保護区の回復を優先する施策が打たれたことなどによって、一時は世界遺産リストそのものからの削除すら検討されたスレバルナ自然保護区は、2003年に危機遺産リストから脱することが出来た。しかし、なおも注視の必要があるとされている

2009年02月25日

グロッキーが木江田博士の所から盗んだタイムボカン

タイムガイコッツ
グロッキーが木江田博士の所から盗んだタイムボカンのデータを元に作られた。このメカは毎回、巨大メカニマルである悪玉メカの頭部になっていた。時間跳躍の際、なぜか部品(弁当や化粧品などもある)が数点取り残されるのがお約束だった。
悪玉メカの胴体部分が破壊された後、この部分だけが残り、エゼクションポッドとしての役割を果たす。次作『ヤッターマン』以降のメカニックデザイナーである大河原邦男が後にデザインした『機動戦士ガンダム』のコアファイターのルーツとの事[1]。
毎回メカニマルの爆発に晒されながら、4話で一角魔王メカごと熔岩の中に墜落して焼失したのと、最終回で爆発の衝撃でマージョ屋敷に直撃して真っ二つに割れて破壊してしまった事を除けば、59回も爆発に耐えている。
プレイステーションのソフトでも自機として登場。
ガイコッツは悪玉メカの通称であるとともに、その爆発後に残る骨型のメカの名前でもある。
メカニマル
悪玉トリオが使用する巨大メカ。由来は「メカ」+「アニマル」。基本的に生物型のデザインが貫かれていたが、鬼やオロチや河童などの架空の生物をモチーフにしたものも登場した。
ドクロファンファーレ
グロッキーの「今週のハイライト!(毎回メカ戦の決め手として、タイムボカンにとどめを刺すべく繰り出される兵器、作戦。必ず失敗してガイコッツメカの自爆につながる)」という叫び声に反応して現れるメカで、初登場は18話。三体一組で登場し、ファンファーレを鳴らして3人の気分を盛り上げる。なお、16話ではおもちゃの兵隊のようなコックピットメカがファンファーレを鳴らしていた。後のシリーズにおいて、コックピットメカはおだてブタやコーラスカラス、オシイ星人、オロカブ、女子高生メカ等へと発展していく。
エンディングのクレジットではスキ・アニメ(ート)(Scan Animateの略)と表記される。東洋現像所(現・IMAGICA)に導入された画像を走査線変形する当時の最先端CG。NHKの番組で使用されたのが国内初のテレビ番組使用例とされている。当時の最先端技術ゆえに相当に高価なシステムだった様だが、過去の作品において密接な付き合いのあったタツノコプロは実験の名目でこのエフェクトを安価に使えたという。メカのタイムトラベルシーンなどに使用された。

OPの変更話数
タイムボカンのオープニングは2種類存在する。前期と後期の相違点は、前期にあったテントウキが単独で時間移動を行うスキャニメイト映像と、ガイコッツを操縦するワルサーを中心としたマージョ一味の映像が、後期はドタバッタンとクワガッタンが時間移動を行うシーンに差し換えられた。2004年に発売されたDVDシリーズではOPの差し換えが行われた話数が不明であるとして、全編のオープニングを後期のものに統一して収録されており、[2]前期のオープニングは最終巻に映像特典として収録された。
キッズ ダーツ すぎな ゼンス サイド カッド 羊の歩み ジニア テンゴリラ ハミング タイトピ すくなか ゲルマ シガレット オーガィ パーシ ヒトゲ メーション ダーパア シリカセ パワー オーテア ミステリー イアタ バクシーシ ミトラ 日本全 ハンガー グプラン インツ ゼウス ピラティ ビーチ フェース ジョッ コアラー スターチ インキャラ チューニ なんぽろ チラリ レーザー だいだい レンニン リケーション トロー ブリッチ マスアキ テンプツ ステーツ

LPドラマ版『タイムボカン』
1975年12月21日にLPドラマ『タイムボカン』が発売している。A面は海賊船を舞台にした「おじいちゃんどこにいるの」、B面は桃太郎をモチーフにした「鬼ヶ島の決斗!!」。脚本はどちらも小山高生で、特にA面は同じく小山が脚本を担当した6話に通じる構成である。なお、本編では38話で同じく桃太郎を扱っているが、こちらは無関係である。

タイムボカン用に作曲された主題歌及び挿入歌が全て織り込まれているなど、ストーリーだけでなく音楽面にも力が入れられている。また、桃太郎役の声優は主題歌を担当した山本正之であり、『ゼンダマン』以降の声優参加に先駆けたデビュー作でもある。余談だが、脚本の小山もA面において海賊の手下役で一言だけ喋っている。

後にCDで復刻された他、『ぶたBOX タイムボカンこれっきり』にも収録された。

日本国外輸出
各国への輸出例がある。アメリカ合衆国へも輸出されている。その際の英名タイトルは「TIMEFIGHTERS」だった[3]。その他、欧州各国・韓国・香港・中国などに輸出されたという。ただし、「日本の物語を扱った作品の扱い」、「悪玉メカ攻撃による主人公のメカの破損」、「爆発でマージョ一味の衣服が破れること」などについては、各国の放送コードで若干変更されたと考えられる。しかし、他のタイムボカンシリーズの作品に比べると格段に広い範囲にわたって輸出され、多くの人々に受け入れられたようである。

2009年02月09日

アルジェリア民主人民共和国に相当する地域

アルジェリアの歴史(アルジェリアのれきし フランス語: Histoire de l'Algérie)では、現在のアルジェリア民主人民共和国に相当する地域の歴史について述べる。
ソルジャー ルーツ りゅうき キャリ ニジェール ロック レード ハレルヤ こごた 茶色の小 バックシ タイヤ シホウチ コラン サイレ ジャーキー ハプテン ファースト ハプ くみん ケニア モンバ ギア ルーブル ニサバル 一致団 モザン パゴダ ツーソン カナイマ レツレツ ファイザー レジレソ フリートーク ひらたけ オペラ レソト チェダー レシオ サバト おとぎ ワッペ リップ エピス ハーフメイ モダニ マスツ アデス ディンイン すながわ

先史時代のサハラは草原であり、タッシリ・ナジェールには紀元前8,000年頃からの住人の生活の様子が壁画に描かれている

この地にはベルベル人が居住していたが、紀元前にフェニキア人が地中海沿岸部に植民都市を建設した。紀元前5世紀になると沿岸部はカルタゴの支配地域となり、ヌミディアと呼ばれるようになった。紀元前3世紀にカルタゴとローマとの間でポエニ戦争が勃発すると、ローマと結んだマシニッサがベルベル人諸王国を統一し、ヌミディア王国を建国した。ヌミディア王国はローマに味方し現リビアのキレナイカにまで勢力を伸ばした。紀元前111年にはヌミディア王ユグルタとローマの間にユグルタ戦争が勃発した。ローマ内戦でヌミディア王ユバ1世はローマの将軍ユリウス・カエサルと戦ったが、敗れてヌミディアはローマの属州になった。

ローマ帝国の支配下でヌミディアは「穀倉庫」として重要な支配地とされた。396年にローマ帝国が東西分裂すると、ヌミディアは西ローマ帝国の統治下に置かれた。430年にはガイセリック大王率いるゲルマン系ヴァンダル人が進出、カルタゴにヴァンダル王国が建国され、アルジェリアの地中海沿岸部もヴァンダルの支配を受けた。ヴァンダル王国は地中海の制海権を握り、海上貿易で繁栄したが、ゲリメリ王時代の534年にユスティニアヌス1世の統治する東ローマ帝国に滅ぼされ、アルジェリアも東ローマ帝国の版図に組み入れられた。

ローマ帝国の終わりにはキリスト教が伝来し、アルジェリアでは「キリスト教最大の教父」と呼ばれるヒッポのアウグスティヌスが生まれ、『告白』や『神の国』といった後のキリスト教世界に多大な影響を与えた著作を残した。

アルジェリアのイスラーム化
7世紀末から8世紀初頭にかけてイスラム教国のウマイヤ朝が征服したイフリーキヤ(現在のチュニジア)方面からアルジェリアに侵入した。アラブ人の侵入によって土着のベルベル人たちはイスラム教に改宗し、住民のアラブ化が進んだ。以後この地はイスラム世界の一部となった。アッバース朝の衰退の後、カイラワーンのアグラブ朝やマフディーヤのファーティマ朝の支配を受け、11世紀にはアラブ系ヒラール族のベルベル人集中地域への侵入により、ベルベル人のアラブ化が加速した。その後ムラービト朝、ムワッヒド朝といったベルベル人のイスラーム王朝が成立し、アルジェリアを支配した。両王朝では学芸が栄え、統治下のアル・アンダルスではイブン・ルシュドなどの知性を輩出した。

1236年にはトレムセン総督のヤグムラーサン・イブン=ザイヤーンがムワッヒド朝から独立し、トレムセンにザイヤーン朝を開いた。ザイヤーン朝は当時アルジェにまで至る地域を支配していたチュニスのハフス朝と、フェスのマリーン朝に挟まれた勢力であり、度々東西から両勢力の侵入を受けた。1492年にイベリア半島で統一スペインがナスル朝グラナダ王国を滅ぼし、レコンキスタが終焉すると、北アフリカ一帯に亡命アンダルシア人が流入し、アルジェリアにもアンダルシアのムスリムやユダヤ人(セファルディム)が定着した。彼等はモール人と呼ばれ、沿岸部の都市に定着し、商工業を支えた。

レコンキスタ後にはスペインが地中海に勢力を伸ばし、キリスト教世界とイスラーム世界の争いが激化した。1509年にはオランがスペインに占領され、ザイヤーン朝はスペインの属国となった。一方アルジェを根拠にしたバルバリア海賊の首領バルバロッサは地中海を荒らし周り、そのためにスペインのアラゴン王フェルナンド2世はアルジェを占領した。バルバロッサはスペインからの保護を求めて1533年にオスマン帝国に臣従した。アルジェはオスマン帝国のマグリブ支配の拠点となり、1550年にはオスマン帝国軍によってトレムセンが陥落し、ザイヤーン朝が滅亡した。オスマン帝国は勢力を拡大して1574年にはハフス朝を滅ぼし、東はエジプトから西はアルジェリアにまで至る北アフリカ一帯を征服した。

オスマン帝国領時代(1550年-1830年)
アルジェ砲撃(1816年)1574年からオスマン帝国は北アフリカのアルジェリア、チュニジア、リビアに別々のパシャを送り込み当地を支配した。後にアルジェのデイはパシャから権力を奪い、オスマン帝国から自立的な立場を取ったが、チュニスのフサイン朝やトリポリのカラマンリー朝のようなトルコ系の軍人による世襲の王朝は誕生しなかった。他の自立王朝と同様にアルジェリアもオスマン帝国時代を通してイスタンブルの帝国政府に貢納を続けた。オスマン帝国時代にほぼ現在のアルジェリアの領域が確立した。また、ヨーロッパ船に対する海賊行為が行われた。海賊行為により多数のヨーロッパ人が奴隷化されたため、1816年にはイギリスとオランダによってアルジェ砲撃が行われた。

フランス領時代(1830年-1962年)
民族英雄 アブデルカーデル19世紀に入るとマグリブ地方はヨーロッパ列強による植民地化の対象となった。1827年にアルジェのデイがフランス領事を「扇の一打」事件で侮辱したことをきっかけに、1830年よりフランス復古王政は、マルセイユ商人の意向と、国内の不満を王政から逸らすためにアルジェリア侵略を始めた。

1830年にアルジェがフランスに征服された後、フランス当局はアルジェリアを完全征服しようとはしておらず、トルコ人を追放してアラブ人の君主を新たに据えるだけに留めるはずだった。しかし、トルコ人のデイが追放されるとアルジェリアは無政府状態に陥り、各地でアラブ人の蜂起が相次いだ。1832年にアブデルカーデルはフランスに対してジハードを宣言し、激しい抵抗運動が続いた。フランスとアブデルカーデルは双方との妥協を模索したこともあり、停戦中にフランスとアブデルカーデルは双方の占領地での主権を認め、アブデルカーデルの支配地では近代的な行政制度が確立された。しかし、1841年にアルジェリア総督にビュジョー将軍が任命され、アブデルカーデルやアブデルカーデルに味方したアラウィー朝モロッコ軍を破り、1847年にアブデルカーデルは降伏した。その後カビール山地のベルベル系カビール人との戦いが続いたが、1854年に最終的にはアルジェリアの民族運動は平定された。

フランスは、アルジェリアに本国同様の行政単位を設置した。1848年にアルジェ県、オラン県、コンスタンティーヌ県の3県が置かれ、3県は本国と同等に扱われてフランス人植民者が本国政治に関わることを可能にした。征服の最中から植民地化・フランス化が進められ、アルジェリアには多数の「コロン」と呼ばれるフランス人移民が流入し定住した。フランス人以外にもヨーロッパからスペイン人、イタリア人、ドイツ人、マルタ人がアルジェリアに移住し、普仏戦争後には、フランスからドイツ帝国に割譲されたアルザス=ロレーヌから、ドイツの支配を嫌ってアルジェリアでフランス人であり続けることを望んだアルザス人が5,000人ほど移住した。[1]これらの非フランス移民もやがてフランス文化に同化してコロンとなった。ヨーロッパ人以外にユダヤ人もフランス化し、フランス支配の一環を担った一方で、多数の反フランス的なムスリムの民族主義者が政治犯として逮捕され、ニューカレドニアなどへ流刑に処された。地中海岸の肥沃な土地を中心に、ムスリムの土地はコロンに奪われた。

ララ・ファーティマ・ヌスメール征服の初期には軍人とアラブ局が主導権を握り、アラブ人やベルベル人の文化を研究し、イスラーム文化を尊重した上での占領政策が行われた。また、第二帝政成立後の皇帝ナポレオン3世は軍部の方針を支持し、親アラブ的な傾向からアルジェリアを「アラブ王国」と呼んだ。このため、コロン達は軍人支配と第二帝政に不満を抱き、ヨーロッパ人の特権を確立するために共和制を信奉するようになっていった。

1870年に普仏戦争の敗北により第二帝政が崩壊して第三共和政が成立すると、第二帝政に不満を抱いていたコロンにより、パリ・コミューンに倣ってアルジェでアルジェ・コミューンが成立した。コロンはコロンによる自治を求めたが、1871年にカビール地方のムクラーニーに率いられたムスリムが大反乱を起こすと、アルジェ・コミューンは崩壊した。しかし、この反乱は鎮圧され、以降アルジェリア植民地の主導権はコロンが握った。

19世紀後半になると、鉄道網の整備、地下資源の採掘、プランテーション農業によるブドウの栽培と、ブドウを基にした輸出用ワインの生産などが進められ、ブドウを軸にしたモノカルチャー経済構造が完成し、アルジェリア経済のフランス経済に対する従属が深まった。土地をコロンに奪われていたムスリムは、失業や貧困のためにフランス本国に出稼ぎせざるを得なくなり、これが今日まで続く在仏アルジェリア人の起源となっている。

1914年に第一次世界大戦が勃発したが、アルジェリアにはマシュリクのアラブ反乱などの影響は及ばず、アルジェリアが直接の戦場になることはなかった。しかし、総力戦体制のもとでアルジェリア人にも兵役義務が課されたほか、フランス本国における労働力の不足から、多くのアルジェリア人がフランスの軍需工場や鉱山などに動員された。アルジェリアからは173,000人が出兵し、内87,500人が志願兵だった。

1921年にアルジェリアの人口は5,804,200人に達し、720,700人がヨーロッパ系、つまりコロンだった。[3]この頃にはコロンもアルジェリア生まれの二世、三世が多くなり、『異邦人』の著者アルベール・カミュのように、コロンはフランス語を話しながらもアルジェリアで生まれ育ったヨーロッパ系アルジェリア人と化していった。

第一次世界大戦後に民族自決への期待が高まったが、フランスの植民地支配は継続した。こうした中、一部の勢力は共産主義に独立の希望を見出した。1926年にパリで成立した「北アフリカの星」は、アルジェリア人・チュニジア人によって結成された組織で、フランス共産党との連携を強めた。いったんは解散させられたものの、1932年に「栄光ある北アフリカの星」として再建され、マグリブ地方出身の人々に支持を拡大した。この組織は1937年にアルジェリア人民党となる。

トーチ作戦でアルジェ付近に上陸した連合軍第二次世界大戦が勃発し、1940年に第三共和政が崩壊してヴィシー政権が誕生すると、アルジェリアはヴィシー政府を支持した。戦時中アルジェリアは直接戦場にはならなかったが、北アフリカ戦線ではドイツのロンメル将軍、アメリカ合衆国のパットン将軍達が戦闘を繰り広げた。1942年11月に連合軍のトーチ作戦が発動し、アメリカ合衆国軍とイギリス軍が上陸すると、駐アルジェリアフランス軍のフランソワ・ダルラン提督は武装解除に応じた。こうしてアルジェリアはシャルル・ド・ゴールの自由フランスに復帰し、パリ解放までアルジェに自由フランスの本部が置かれた。フランスは本土解放のためにアルジェリア人の徴兵を行い、独立運動家のフェラハート・アッバースらはムスリムの市民権の拡大と引き換えに自由フランスに協力した。アルジェリアからも多くの成人男子がフランス軍に動員され、アルジェリア師団はイタリア戦線のモンテ・カッシーノの戦いや、ドラグーン作戦をはじめとしたフランス本土での戦いに参加し、多大な犠牲を出した。戦時中のアルジェリア人の生活はインフレや食糧不足によって厳しく、1945年5月8日の戦勝記念日を祝う集会は対仏暴動に発展し、フランス軍によって鎮圧された。セティフで数万人の死傷者を出したこの事件はアルジェリア独立運動を高揚させることになった。

第二次世界大戦後、ムスリムの間にナショナリズムが広まり、第四共和政下の1946年に行われた選挙では、新たにアルジェリア宣言民主同盟を結成したフェラハート・アッバースが勝利した。フランス議会は1947年にアルジェリア組織法を採決し、アルジェリアの自治を拡大する方針を打ち出したが、この措置には特権の維持を望むコロンも、ナショナリズムに燃えるムスリムも反発を抱くものとなった。その後もフランス政府はムスリムの状況を改革する努力を行わず、このため、1953年には穏健派だったアッバースも武装路線を打ち出し、ゲリラ戦争への準備が進んだ。

アルジェリア戦争(1954年-1962年)
バリケードの一週間(1960年)植民地独立運動の激化によりフランスは第一次インドシナ戦争を続けていたが、ディエン・ビエン・フーの戦いの敗北により、1954年にピエール・マンデス・フランス首相はジュネーヴ休戦協定が結んで仏領インドシナ連邦の統治下にあったベトナム国などの独立を承認した。このことは、他のフランス植民地における独立運動を力付けることになった。1954年にはフランスからの独立を標榜する「国民解放戦線」(FLN)が結成され、ゲリラ活動をアルジェリア、フランスで展開した。

北アフリカ植民地のうちチュニジアとモロッコは1956年に独立を果たした。しかし、曲りなりともフランス保護領として君主国の組織が維持されていた両国と異なり、フランス本土の一部として扱われ、多くのヨーロッパ系市民(コロン、ピエ・ノワール)を抱えるアルジェリアに対してはフランス世論も独立反対の声が強く、フランス政府は独立を認めなかった。1957年にはアルジェの戦いでフランス陸軍の空挺部隊が独立派を大弾圧し、「フランスのアルジェリア」政策の維持を図った。大打撃を受けたFLNは拠点をモロッコやチュニジアに移し、1958年にはナセル政権の計らいでエジプトのカイロにアルジェリア臨時政府が樹立された。こうして第三世界各国からのアルジェリア独立の支援も始まり、日本からも宇都宮徳馬などがFLNを援助した。[4]

フランス政府はアルジェリアの在来住民にフランス人としての完全な市民権を付与することで懐柔をはかろうとするが、特権を維持することを望むコロンたちの反発を買った。アルジェリア在留のフランス軍空挺部隊はコルシカ島を占領し、クーデターを起こそうとした。

このような混迷の中でフランスでは引退していた英雄に事態の収拾が求められ、ド・ゴールが大統領に就任し、憲法を改正して第五共和政が成立した。ド・ゴールは内外の情勢を鑑み、植民地解放政策をとり、1959年にはアルジェリアの独立を承認しようとした。しかし、軍は軍事拠点としてのアルジェリアの重要性を叫び、アルジェリア在住の100万人のコロンは「フランスのアルジェリア」をスローガンに独立に反対した。しかし、ド・ゴールは主導権を発揮して難局を切り抜けた。1961年にエヴィアン協定が結ばれ、7年に渡るアルジェリア戦争は終結した。コロンや軍部の極右派は秘密軍事組織(OAS)を結成してフランス当局やムスリムに対するテロを繰り広げたが、住民投票の結果、独立承認が圧倒的支持を集め、アルジェリアは独立した。戦争による死者は100万人に達したとされている。

アルジェリア革命は脱植民地化時代のブラックアフリカの独立革命に多大な影響を与え、第三世界諸国からも多大な支持が寄せられた。マルティニーク出身の精神分析家フランツ・ファノンはFLNに参加する傍ら独自の革命理論を体系化し、後のチェ・ゲバラと共に1960年代の第三世界の革命運動やポストコロニアリズムに大きな影響を与えた。

独立に伴い、100万人のヨーロッパ系アルジェリア人は大挙してフランスに逃亡した。フランスに協力したムスリムのアルジェリア人(アルキ)もフランスに亡命できなかった者は報復により虐殺された。アルジェリアを統治していたフランス政府は植民地時代に一貫して必要な改革を施すことを拒否し、ムスリムの権利拡大を認めなかった。ヨーロッパ系アルジェリア人は終始ヨーロッパ人としての特権の維持を求め、アルジェリアに住むベルベル人やアラブ人との協力を最後まで拒み、そのことがヨーロッパ系アルジェリア人とアラブ系、ベルベル系のアルジェリア人が融和した国家を目指す穏健な独立運動の発展を阻害した。その帰結として100万のヨーロッパ系アルジェリア人は、生まれ育ったアルジェリアを永遠に失うことになった。

独立後のアルジェリア(1962年-)
初代大統領ベン・ベラ(右から一人目)独立後、FLN内部でのベン・ヘッダとベン・ベラ対立によりアルジェリアは内戦の危機に陥った。しかし、最終的に軍部を掌握したフワーリー・ブーメディエンの支持によって9月10日にてベン・ベラの勝利が確定し、アルジェリア民主人民共和国が成立した。1963年には憲法が制定され、ベン・ベラが大統領に就任した。ベン・ベラはナセル主義と社会主義に影響を受け、フランス系アルジェリア人の出国によって放棄された農地や工場の国有化政策を採り、キューバ革命後のキューバと共に非同盟運動を主導して第三世界諸国や植民地に革命の輸出を図った。アルゼンチン人の革命家チェ・ゲバラがアルジェ演説でソ連を厳しく批判したのもこの頃である。ブラックアフリカ諸国との関係も重視され、1963年のアフリカ統一機構(OAU)の原加盟国となった。また、132年間のフランス支配によってフランスの影響を受けた国民の再アラブ化が図られ、アラビア語教育が熱心に行われたが、これはベルベル系の住民の独自性を否定する方向に働き、後にベルベル問題に発展した。

しかし、経済は混迷し、失業者は増加した。1965年のアルジェで開催される予定だった第二回非同盟諸国首脳会議の直前に、ブーテフリカ外相の解任をきっかけにしてブーメディエン国防相がクーデターを起こし、ベン・ベラ政権は崩壊した。

クーデターによって1965年に就任したフワーリー・ブーメディエン政権は経済の建て直しに成功した。ブーメディエンは1971年に石油と天然ガスを国有化し、戦後高度成長を達成していた日本を模範にして重工業化を進めた。しかし、オイルショックによりアルジェリア経済は打撃を受け、先進国への離陸は失敗し、フランスに出稼ぎするアルジェリア人が増加した。他方、ベン・ベラ以来の第三世界非同盟外交は続き、ブーメディエンが主導権を握った1974年の国連総会(資源総会)ではアルジェリアの名声が高まった。ブーメディエンは1978年に死去した。

ブーメディエンの死を受けて1979年に就任したシャドリ・ベンジェディード政権は、重工業化の推進による経済開発を推進したが、1980年のアルジェ学生運動や「ベルベルの春」事件など、FLN一党体制やアラブ化政策に対する国民の不満が明らかになった。1986年にはインフレが酷く進行し、食糧難や失業などの社会不安を生み出した。1988年には食糧不足からクスクス暴動が発生し、危機感を覚えた政府により1989年に憲法が改正され、複数政党制が認められた。しかし、このような状況を背景として、若年層を中心にイスラム原理主義への支持が高まり、こうしたイスラム原理主義者のなかには武装闘争を展開するものも現れた。

1991年12月に行われた初の野党の出馬が認められた総選挙の結果、イスラム原理主義勢力のイスラム救国戦線(FIS)が8割の議席を得て圧勝した。彼らは憲法を無効とした。これに対し、世俗主義を標榜する軍部がクーデターで政権を握り、シャドリ首相を解任した。軍事政権はイスラム原理主義者を非合法化して弾圧、選挙は無効とされた。1994年にゼルアルが暫定大統領に就任したが、イスラム原理主義組織はテロで反政府運動を展開し政情は混迷している。政府、軍部、イスラム主義勢力によるアルジェリア内戦で約20万人が死亡したとされる。

1999年の大統領選挙でFLNからアブデルアジズ・ブーテフリカが文民として34年ぶりに当選した。

2002年総選挙でFLNが第一党となった。

2006年現在、テロは沈静化している。また、ブーテフリカ大統領などの協調政策により、テロのイメージをなくす努力をG8諸国などに対して積極的に行っている。

2009年01月23日

まんがタイムオリジナル2002年9月号増刊

通巻号数はVol.1~16まで刊行。

2002年5月17日 - まんがホーム2002年7月号増刊として創刊(VOL.1)。当時は中綴じであった。
2002年8月9日 - まんがタイムオリジナル2002年9月号増刊としてVOL.2発売。この号から毎月刊行となる。
2003年10月9日 - まんがタイムオリジナル2003年11月号増刊としてVOL.16発売。この号が増刊誌最後の刊行となる。
ズンイン 紅葉遊 ミライン バックラ バンカメ コート トケーオー プチポワ スエード シート バーレル たいはく クール グワナ 江戸一 ひだまり チーク プラトーン ワンウェイ チャンス ナブスター フウトウ バリカ シェイク プロテ プロダク ルイジ ティブ 紫式部 まさかき ハンド はわい ネクタイ シタール ギガビ トラン モニタリ スキニー ネオナチ ポット ソイド スター 美人薄命 ググイウ リアリ サーチイスノ シンハ はさま セッション ナック

月刊誌
2008年11月8日現在、通巻号数はNO.61まで、創刊年数は6年目。

2003年11月9日 - まんがタイムきらら 2003年12月号として独立創刊。この号から平綴じとなる。また、現在の通巻号数は、この号をNO.1として数えられている。
2007年12月8日 - まんがタイムきらら 2008年1月号が刊行。この号で通巻号数がNo.50になる。
2008年11月8日 - まんがタイムきらら 2008年12月号が刊行。この号で独立創刊5周年となり、記念小冊子「ぷち☆きら~Happy 5th Birthdy for KIRARA~」を付録している。
増刊まんがタイムきららCarat Vol.4~Vol.15を刊行。(独立創刊し、月刊まんがタイムきららCaratへ)
増刊まんがタイムきららMAX Vol.1を刊行。(独立創刊し、月刊まんがタイムきららMAXへ)
増刊まんがタイムきららForward Vol.1~Vol.10を刊行。(独立創刊し、月刊まんがタイムきららForwardへ)

まんがタイムKRコミックスと関連商品
まんがタイムKRコミックス(前述に詳しい説明あり)2008年11月12日現在、KIRARA MENUは250以上、創刊年数は6年目。

※基本、4コマ系はA5判のコミックス、ストーリー系はB6判のコミックスで刊行。

2003年7月26日 - 「まんがタイムKRコミックス」として『トリコロ』第1巻が、A5判で刊行される。KIRARA MENU 1。
2007年8月27日 - 「まんがタイムKRコミックス」として『S線上のテナ』第1巻が、B6判で刊行される。KIRARA MENU 150。
2008年5月27日 - 「まんがタイムKRコミックス」として『ふおんコネクト!』第2巻が、A5判で刊行される。KIRARA MENU 200。
2008年7月28日 - 「まんがタイムKRコミックス -YELL! series-」として『さんぶんのいち。』第1巻,『純真ミラクル100%』第1巻,『御伽桜館』第1巻が、B6判で刊行される。
2008年11月12日 - 「まんがタイムKRコミックス」として『桃色シンドローム』第3巻が、B6判で刊行される。KIRARA MENU 250。この月のよりストーリー系 B6判コミックスは、毎月12日刊行に変更される。
まんがタイムKRコミックスレーベル関連(前述に詳しい説明あり)

2004年7月30日 - 「まんがタイムKRコミックス」として『トリコロプレミアム トリコロ ビジュアルファンブック』(海藍)が、大型判で刊行される。KIRARA MENU 13。
2007年3月27日 - 「まんがタイムKRコミックス」として『ひだまりスケッチブック ひだまりスケッチ ビジュアルファンブック』(蒼樹うめ)が、B5判変型で刊行される。KIRARA MENU 123。
ドラマCD

2004年6月23日 - 『トリコロ』のドラマCDが発売される。芳文社の4コマ誌に連載されている漫画作品としては、初めてのドラマCD化となる。
2005年1月には『1年777組』ドラマCDが発売。
同年3月には『ねこきっさ』のドラマCDが発売。
2008年5月には『ふおんコネクト!』のドラマCDが発売。

連載されている主な作品
(2008年6月号時点、連載期間の長い順<増刊誌時代含む>)

ねこきっさ (ととねみぎ、月刊まんがタイムオリジナル2002年10月増刊号 -VOL.3- - )
三者三葉 (荒井チェリー、月刊まんがタイムオリジナル2003年2月増刊号 -VOL.7- -)
きつねさんに化かされたい! (桑原ひひひ、月刊まんがタイムオリジナル2003年10月増刊号 -VOL.15- - )
かみさまのいうとおり! (湖西晶、2003年12月号(独立創刊号) - )
かたつむりちゃん (今井神、2004年12月号 - )
棺担ぎのクロ。〜懐中旅話〜(きゆづきさとこ、2005年1月号 - )
相沢家のえとせとら(真未たつや、2005年10月号 - 休載中)
ふおんコネクト!(ざら、2006年3月号 - )
五日性滅亡シンドローム(ヤス、2006年3月号 - )
うぃずりず(里好、2006年3月号 - )
まーぶるインスパイア(むねきち、2006年11月号-)
あっちこっち(異識、2007年1月号-)
二丁目路地裏探偵奇譚(コバヤシテツヤ、2007年1月号-)
ダブルナイト(玉岡かがり、2007年3月号-)
けいおん!(かきふらい、2007年3月号-)
- そら -(白雪しおん、2007年4月号-)
からめるマフィン(便弁また郎、2007年6月号 - 2008年2月号・2008年9月号 - )
さくらりちぇっと(月見里中、2007年6月号-)
てとてとてとて(七松健司、2008年2月号-)
ゆゆ式(三上小又、2008年4月号-)

過去に連載されていた主な作品
(2008年6月号時点、連載開始号の古い順)

トリコロ (海藍、創刊号 - 2005年5月号)(※表紙のみ2005年7月号、2006年4月より「電撃大王」へ移動)
ぽけっとジャーニー (おおた綾乃、創刊号 - 2005年2月号)
隠密☆少女 (関根亮子、創刊号 - 2005年2月号)
LOVE ME DO (新条るる、創刊号 - 2005年9月号)
てんちょおのワタナベさん (刻田門大、創刊号 - 2005年10月号)
市立鋳銭司学園高校放送部 (ふじもとせい、創刊号 - 2005年12月号)
マオマオ (ナフタレン水嶋、創刊号 - 2006年7月号)
かるき戦線 (太田虎一郎、創刊号 - 2006年2月号)
スーパーメイドちるみさん (師走冬子、創刊号 - 2007年3月号。以後はまんがタイムスペシャルのみ掲載)
影ムチャ姫 (ナントカ、創刊号 - 2007年4月号)
てんしの末裔 (藤島じゅん、2002年10月号 - 2006年1月号)
1年777組 (愁☆一樹、2002年10月号 - 2008年6月号)
ハイリスクみらくる (吉谷やしよ、2003年1月号 - 2004年10月号)
姉妹の方程式 (野々原ちき、2003年5月号 - 2007年12月号)
悪魔様へるぷ☆ (岬下部せすな、2003年7月号 - 2006年5月号)
たるとミックス!(神崎りゅう子、2003年12月号 - 2004年9月号。まんがタイムきららCaratと並行連載)
あねちっくセンセーション(吉谷やしよ、2005年2月号 - 2008年6月号)
となりのカワンチャさん (月見里中、2005年6月号 - 2007年7月号)
猫耳のミコ譚 (音木らく、2006年1月号 - 2007年12月号)
天獄パラダイス(凪庵、2006年1月号 - 2008年3月号)
ドージンワーク(ヒロユキ、2006年4月号 - 2008年3月号、それ以前にも単発掲載あり 番外編:2008年5月号 - 2008年10月号)
ふーすてっぷ(岬下部せすな、2006年8月号 - 2008年4月号)

表紙の変遷
4コマ誌においては、他のジャンルの漫画雑誌と異なり、表紙イラストが1名の作家によって複数月連続して担当される、という特徴がある(例外あり)。ここでは、本誌の表紙イラストを担当していた作品・作家と、その担当していた期間を記す。順番は、基本的に初表紙での作品/作者の順番に記載。

ぽけっとジャーニー(おおた綾乃)(創刊号(2002年7月号))
天然女子高物語(門井亜矢)(2002年9月号)
トリコロ(海藍)(2002年10月号 - 2004年5月号、2004年9月号 - 2005年2月号、2005年4月号 - 2005年5月号、2005年7月号)
ホワイトロリータ(むっく)(2004年6月号 - 同年7月号)
ひなめいど(里美いちか)(2004年8月号)
かみさまのいうとおり!(湖西晶)(2005年3月号、2005年8月号 - 2006年2月号、2006年10月号)
悪魔様へるぷ☆(岬下部せすな)(2005年6月号)
棺担ぎのクロ。~懐中旅話~(きゆづきさとこ)(2006年3月号 - 同年4月号、2006年7月号、2006年11月号 - 同年12月号、2007年12月号、2008年3月号 - 同年4月号、2008年7月号、2008年10月号、2009年2月号(最新号))
ドージンワーク(ヒロユキ)(2006年5月号 - 同年6月号、2006年8月号 - 同年9月号、2007年1月号 - 同年2月号、2007年4月号 - 同年10月号、2008年1月号 - 同年2月号)
うぃずりず(里好)(2007年3月号)
ふおんコネクト!(ざら) (2007年11月号、2008年6月号、2008年11月号)
ドージンワーク番外編(ヒロユキ)(2008年5月号、2008年8月号)
あっちこっち(異識)(2008年9月号)
けいおん!(かきふらい)(2009年1月号)
2008年12月号は全作品。

コミックマーケットでの活動
2005年8月のコミックマーケット68に同社の「花音」と合同で出展したのを皮切りに、毎年8月開催の通称「夏コミ」のみ企業出展している。頒布品は後述するきらら執筆陣(Carat、MAX、フォワードを含む)による他作パロディを掲載する企画本と作者の手による掲載作品のイラストを収録したイラスト集を基本としている。

2008年8月のコミックマーケット74では、『ひだまりスケッチ』の高い人気もあり、特に初日は長蛇の列が出来ていた。

コミックマーケット72のパロディ集
「まんがタイムきらら コミックマーケット72企画本」は、2007年8月に行われたコミックマーケット72においてまんがタイムきらら(芳文社)ブースで販売されたまんがタイムきらら(姉妹誌含む)掲載作品のセルフパロディ誌。販売価格は1000円。『ドージンワーク』の紙袋が付いていた。

パロディ集の掲載作品
カッコ内は元ネタとなった作品名。カッコなしのは元の作品名がそのまま使われているもの。表記は掲載順。

湖西晶 - 「おだまりスケッチ」(ひだまりスケッチ)
ざら(表紙も担当) - 「教艦ASTRAY」(教艦ASTRO)
荒井チェリー - 「ことはの王子様とひめくらす!とドージンワークと帝都雪月花」(ことはの王子様、ひめくらす、ドージンワーク、帝都雪月花)
里好 - 「GA 芸術科アートデザインクラス」
鈴城芹 - 「オオカミさんお手をどうぞ」(オオカミの手かします!)
真田一輝 - 「姉妹の不等式」(姉妹の方程式)
nino - 「ねこきっさ」
玉岡かがり - 「玉岡かがりの三者三葉」(三者三葉)
真未たつや - 「とらぶるクリック!! ~キャラ愛~」(とらぶるクリック!!)、「雅さんちの戦闘事情 ~交換~」(雅さんちの戦闘事情)
なかま亜咲 - 「なかまのひめくらす」(ひめくらす)
コバヤシテツヤ - 「かみさまのいうとおり!」
吉谷やしよ - 「冬来たりなば春遠からじ」(落花流水)
鬼八頭かかし - 「イチロー!をいじろー!」(イチロー!)
むねきち - 「なじみんワーク」(ドージンワーク)
桑原ひひひ - 「コミマうぃずりず」(うぃずりず)
あどべんちゃら - 「3倍校長」(ひだまりスケッチ)
榊 - 裏表紙

コミックマーケット74のパロディ集
「まんがタイムきらら コミックマーケット74企画本」は、2008年8月に行われたコミックマーケット74においてまんがタイムきらら(芳文社)ブースで販売されたまんがタイムきらら(姉妹誌含む)掲載作品のセルフパロディ誌。販売価格は1000円(単体として)。今回は『ひだまりスケッチ』の紙袋が付いていた。また、この本とイラスト集およびエコバッグ(『ひだまりスケッチ』)がセットになった「特別きららセット」も販売された。

パロディ集の掲載作品
表記は掲載順としている。

異識 - 「ふおんコネクト!…エラー!!」(ふおんコネクト!)
三上小又(表紙も担当) - 「夏の空は花の様な青の色。あとセミ」(ふら・ふろ)
湖西晶 - 「ばらえてぃモーニン」
都桜和 - 「はるみねーてぃっど」(はるみねーしょん)
なぐも。 - 「ラジオでGA!」(GA 芸術科アートデザインクラス)
カヅホ - 「ぷらバン!」(うらバン!)
高崎ゆうき - 「まーぶるインスパイアをインスパイア。」(まーぶるインスパイア)
里好 - 「二丁目路地裏妖怪奇譚」(二丁目路地裏探偵奇譚)
大沖 - 「けいおん!」
柴田燕ウ - 「アンテナでGO!」(ラジオでGO!)
kashmir - 「ぼくの生徒はヴァンパイア」
三嶋くるみ - 「オトナになっちゃったら」(一年生になっちゃったら)
カネコマサル - 「FAKE KILL ME BABY」(キルミーベイベー)
夜野みるら - 「にこプリトランス」
荒井チェリー - 「まん研」
あどべんちゃら - 「かみさまのいうとおり!」
かきふらい - 裏表紙

2009年01月16日

ストラボン

ストラボン(Strabon,ギリシア語:Στράβων,ラテン語:Strabo,紀元前63年頃-紀元23年頃)は古代ローマ時代のギリシア系の地理学者・歴史家。全17巻から成る「地理書」(または地理誌)(Geographica)で知られる。この大著は、当時の古代ローマの人々の地理観・歴史観を知る上で重要な書物と成っている。

生涯
小アジアのアマセイア(現在のトルコ)の裕福な家庭に生まれる。当時ローマ帝国の領土内であった。最初はアナトリアのニュサに学び、後にローマにて哲学と地理学を学んだ。

哲学の立場としては、アリストリレス派、後にストア派になり、政治的には、ローマ帝国を支持していた。

ローマや古代ギリシアやクシュなど地中海沿岸各地に旅行を行い、その見聞を元に17巻からなる『地理書』(Geographica)を示した。(多くは現存している)この著の完成時期は不明であるが、記載内容からティベリウスの治世の時に多くは書かれたものと推測されている。この著作は、地中海沿岸の都市の詳細な叙述で知られ、地域の記載のみならず歴史やその都市の伝説にまで触れて、当時の歴史・地理を知る上で重要な書物である。23年頃にアマセイアにて没している。没年は西暦21年という説もある。

一方で「地理書」を上回る全47巻からなるとされる「歴史」はほとんど散逸してしまい、現存しているのはイタリア・ミラノ大学所有のごく一部の断片にしか過ぎない。

クシュ(クシテとも)は現在の南エジプトと北スーダンに当たる北アフリカのヌビア地方を中心に繁栄した文明。最も早い時代にナイル川流域で発達した文明の一つである。クシュ人の国はエジプトの領域内への進入の時期の後で発展した。クシュの文化は、並存していた期間は短いが、エジプト新王国と相互に影響を与え合っていた。

最初の発達した社会がエジプト第1王朝(紀元前3100年頃から紀元前2890年頃)の時代ごろヌビアに現れた。クシュの国として知られている最初の国はケルマ王国で、紀元前2600年ごろに興り、ヌビアの全てとエジプトの一部を支配した。文字資料が発見されていない上、エジプトの資料もめったに言及していないので、これらの人々についてはほとんど知られていない。

紀元前2500年ごろ、エジプトが南に移動し始めた。私たちの持つクシュに関する知識のほとんどはそれらを通してきている。しかしこの拡大は、エジプト中王国の凋落によって止まった。紀元前1500年ごろエジプトの拡大は再び始まったが、このときは組織化された抵抗に遭遇した。(歴史家たちはこの抵抗が多種多様な都市国家に由来するものなのか、一つの統一された帝国に由来するものなのか確信を持っていない。独立した国家という観念が土着のものなのかエジプト人から持ち込まれたものなのかということにも議論の余地がある。)エジプトは優勢で、この地域はトトメス1世の支配下におかれ「植民地化」された。トトメス1世の軍隊はたくさんの堅固な要塞を築いた。クシュはエジプトに金や奴隷をはじめとする様々な資源を供給した。
ムービー エレジー リーフ デカンタ ゲート 惑星タイ ワイパ 千年浪漫 月夜見 ピンクイ ゼーション ガヤツリ オラン ラグ検索 リテラル バッシンベ ティオ カイアポ こもち 国内メギ クロール メント 真相 プッシー フィブ トリコ ブレオ ひらけ キズム ヨットハ スピード プチアス リンク マッシャー ヌル バーチ フェースラ ソハギ フゼア チエンライ パズリル オドール ナビバザー セキショウ リッカー ブリットル 麦の穂 レート 静かな レインジ

紀元前11世紀にエジプトでの内部抗争により「植民地」支配が崩壊して、ヌビアのナパタに本拠地を置いた王国の独立運動が起こった。この王国は植民地の政権を転覆させた地元民によって支配された。エジプトの文化と技術の影響、例えば、ピラミッドの建築や、土着の神と同じようになされたエジプトの神の崇拝などにはっきりと見ることができる。

ナパタ
カシュタ王(Kahsta)とその次のピイ王の下で王国の本拠地ナパタはとても有力になった。ピイ王はエジプトを征服し、エジプト第25王朝を建国した。

紀元前671年にアッシリアが侵攻したとき、クシュはエジプトから撤退した。紀元前591年プサメティク(Psammetik)2世治世下のエジプトがクシュに進行した。おそらくクシュの支配者アスペルタ(Aspelta)がエジプトに進行する準備をしていたためで、エジプトはすぐに撤退した。

メロエへの遷都
アスペルタの後継者が彼らの首都をナパタよりずっとかなり南のメロエに持っていたのは記録から明らかだ。遷都の正確な日付は不確かだが、ある歴史家達はヌビア南部へのエジプトの侵攻に対応して、アスペルタの統治期間中だと信じている。他の歴史家達は王国を南にやったのは、鉄の鉱山の魅力だと信じている。メロエ周辺にはナパタと違って、溶鉱炉を燃やすことが出来る大きな森がある。地域のいたるところにギリシャ人商人が到達したことはまたクシュがもはやナイル沿いの交易に依存しているのではなく、むしろ製品を東の紅海へ輸出し、そしてギリシャ人が植民都市と交易していたことを意味する。

他の学説によると、クシュはナパタを本拠とする国とメロエを本拠とする国に分かれていたが、その発展は関連していた。メロエは徐々に北のナパタを凌駕した。王室の立派な邸宅はメロエ北部で見つけられていない、そしてナパタは宗教的指導者でしかなかったということはありえる。しかしナパタで数世紀の間王達がメロエに住んでいるときでさえも、戴冠式が行われ、王達が埋葬されていたので確かに重要な中心地だった。

紀元前300年ごろ、王がナパタの代わりにメロエに埋葬され始めてから、メロエへの遷都はより完璧になった。ある学説はこのことは王がナパタに本拠地を置いた神官たちの権力から離れたことを表しているとする。紀元前1世紀頃の歴史家であるシケリアのディオドロスは、神官達によって自分自身を殺すよう命ぜられたが、伝統を破って神官達を代わりに死刑にさせたエルガメネス(Ergamenes)という名前のメロエの支配者について物語を語っている。ある歴史家達はエルガメネスはアラカマーニ(Arrakkamani)というメロエに埋葬された最初の支配者の事を言っているのだと考えている。しかしながらもっとありそうなことに、エルガメネスの音訳はアラカマニ(Arqamani)だ。彼は、長年統治した後王室の埋葬地をメロエに開いた人物だ。他の学説に首都は常にメロエだったというものもある。

クシュは数世紀続いたが、私達はそれに関してほとんど情報を持っていない。初期のクシュはエジプトのヒエログリフを使っていたのだが、メロエは新しい文字を発達させ、メロエ文字で文章を書き始めた。メロエ文字はいまだに完全な判読はなされていない。国は近隣国との交易や、遺跡や墓を作り続けながら繁栄し続けていたようだ。紀元前23年にローマ帝国のアエギュプトゥス総督、ガイウス・ペトロニウス・ポンティウス・ニグリナス(Gaius Petronius Pontius Nigrinus)がヌビアの南部エジプトへの攻撃に対してヌビアに侵攻した。侵攻はその地域の北部を略奪しながら、北へ帰還する前紀元前22年にナパタを負かした。

衰退期
クシュの衰退は物議をかもしている。ネロ帝の治世下で外交使節がメロエを旅している (Pliny the Elder、 N.H. 6.35)。 紀元2世紀後、王室の墓は規模と豪華さに関して縮小し始めていて、そして大きな遺跡の建築は取りやめられた様である。王室のピラミッドの埋葬もまた紀元4世紀半ばには終わった。考古学上の記録は未知の集団或いはバラナ(Ballana)文化として知られている新しい社会への文化的変化を示している。

このことは西暦350年ごろエチオピアのアクスムからのエザナ王の侵攻によって王国が破壊されたという伝統的な学説とほとんど一致する。然しながらエチオピアの文書では彼らがすでに支配していた土地の反乱を鎮圧したことを描写しているが、ヌバ(Nuba)の事を述べているのみで、メロエの支配者については何も言及していない。

したがって多くの歴史家の学説はこれらのヌバはローマが呼ぶところのノバタエ(Nobatae)と同じ住民であるとする。Straboはローマ帝国が西暦272年に北部ヌビアを引き倒したときかれらはノバタエを権力の空白を埋めるために招待したと報告している。他の重要な要素はBejaの祖先であると考えられているBlemmyesである。彼らは砂漠の戦士ローマの領地を脅かしてそのためにもっと防御できるような境界へのローマの撤退を引き起こした。紀元4世紀の終わりに彼らは何とかヌビア南部のKalabshaのあたりのナイル川流域の一部を支配していた。

6世紀までにかつてメロエによって支配されていた地域に新しい国が作られた。それはほとんど確かにノバタエという国がノバティア(Nobatia)と言う国に進化したもののようで、そしてまたバラナ文化の影響下にあって、他に二つの新しい国がその地域に興った、即ちマクリア(Makuria)とアロディア(Alodia)で非常に似ていた。一方で西暦450年ごろヌバ(Nuba)の王によってベジャ(Beja)は砂漠に追放された。これらの新しいヌビアの国々はクシュから多くのものを受け継いでいたが、また非常に異なってもいた。彼らは古ヌビア語を話し、コプト語のを基にした文字を使っていた。つまりメロエ語とメロエ文字は完全に失われたようである。

メロエに置き換えられたNuba/Nobataeの起源は不確かである。それらは西から来て彼らの文化と言語を入植した人々たちに征服と威圧した遊牧民の侵入者かもしれない。ノバタエは実のところ土着の人たちで、そして数世紀の間メロエの指導者に支配されていた地域であるナパタの現地人であると。そしてノバタエという言葉は直接にナパタという語を指すのだとP.L.Shinnieは推測している。

聖書中でのクシュ王国
この文明に与えられた名前は、旧約聖書に述べられた東北アフリカに移住したハムの息子の一人クシュに由来している。聖書から、エジプト南部とエチオピアの一部を含む大きな地域がクシュ王国として知られていたことがわかる。聖書はしばしばクシュ王国について言及している。このクシュ王国というのは南アラビアにあったと主張する人もいる。